【こじらせ女子の生みの親】雨宮まみさんを偲ぶ
11月17日の夜。
いつものように明日の朝はどんなブログを書こうかなと考えていた。
先日書いた星野源さんについての記事の内容を書いていて
もしかして私はいわゆる「こじらせ女子」なのか!?
と思ったので「こじらせ女子」のついてブログにしてみようと思い立ち、検索を始めた。
すると、とんでもない事実が飛び込んできた。
「女子をこじらせて」の著者の雨宮まみさんが亡くなられていた。
私がブログを書こうと思ったこのタイミングでの訃報だったので更に驚いた。
正直、雨宮まみさんの著書を読んだことはない。
名前は知っていたし、「こじらせ女子」の生みの親ということも知っていた。
そのくらい面識であったが(面識というのはおかしいかもしれないが)
ショックは大きかった。
私が検索して特に心に引っかかった雨宮まみさんの文章。
「ババア」と呼ばれると、怒りとか失望とかよりも先に「ああ、こういう『女の年齢』ってものに、いつまでつきあわされるんだろう?」という気持ちがわいてくる。若さや美しさに嫉妬? そんなこと、まともにしていたら、40歳まで生き延びることはできなかった。自分より若くて美しい人間は死ぬほどいる。さらに自分より才能もずっとあって、お金もずっとあって、成功している人だっている。そういう人たちの前で、「自分は自分です」と存在するために、卑屈にならずに快適な友達付き合いができるように、どれだけ気持ちをしっかり持ってきたことか。
いつまでも若い人でいたいわけじゃない。もうババアですからと自虐をしたいわけじゃない。私は私でいたいだけ。私は、私のままで、どうしたら私の「40歳」になれるのだろうか。そしてどんな「40歳」が、私の理想の姿なのだろうか。
引用:大和書房・WEB連載MOB〜40歳がくる! 雨宮 まみ vol01
この言葉に共感した30代40代の女性はかなり多いと思う。
まさにそれっ!!
って声を大にして叫びたい。
自分はアラサーやアラフォー、独身、高齢出産などなど
女性についてくるワードの数々を気にしていないつもりでも
世間はそうはさせてくれない。
多少気になっていても、気にしない振る舞いをして笑顔で交わす毎日。
何気ない世間話の一つとして
女性についてくるワードが使われすぎなんだよな。
悪びれもなく使ってもいいよの太鼓判押しすぎでしょ。
「結婚まだなの~?」
「はやく結婚しなさいよ~」
ニコニコ顔で聞いてもOKですよね。
久しぶりに会う親戚のおばちゃんから絶対聞かれるやつ。
いやいや分かってるしね。
そもそもこんな個人的なデリケートな話がさらりと聞ける世間ってどうよ。
真面目に素直に生きていたとしても
自分が32歳になっても結婚していないってだけで
このワードを挨拶代わりに日常的に使われていったら
ひねくれものになってくるでしょ。
若い子に対してもそう。
何とも思ってなくて、本当にカワイイなって思っていても
周りに比較されすぎることで自虐に走るしかない機会が増えていく。
そんなこと誰にも頼まれていないってことも分かってる。
こんなモヤモヤを温かく文章にまとめてくれる雨宮さんの文章力と
なんか励まされている気分にしてもらえる優しさ。それも嫌みがなく。
世の中の女性はどれだけ背中を押してもらえたんだろう。
死にたくなる夜というのが、やってくる。
たいていはそのたびに、薬を飲んで、寝ようとして、
眠れなかったり、でもほかのことでは気を散らすことができなかったり、
朝日がのぼるまでの時間を、苦しいまま過ごすことになる。
「死んでもいいですか?」と、誰かに訊きたくなる。
否定してほしいわけじゃない。死んじゃダメだと言われたいわけじゃない。心配なんか、かけたくない。
でも、その言葉は甘えだと、よくわかっている。
死んでもなにも起こらない。
あとに残された人がいろいろ面倒だろうから、申し訳ないだけで。
それでも、この苦しさがあとどれだけ続くのかと思うと、耐えられなくなって、
ベランダからじっと地面を見つめるときがある。
冷たい手すりを握って、いつでもこの苦しみと決別しようと思えばできるのだ、と心に言い聞かせる。
死んだら、みんな、「わたしたちと一緒にいる時間は楽しくなかったの?」と思うだろう。
「笑っていたけど、あれは嘘だったの?」「苦しんでいることに気づいてあげられなかったの?」
そんなことない。全部本当で、楽しくて、愛されていることも知っていて、ただ、わたしにはわたしの、どうしようもない傷がある、というだけのことなんだ。
時間が経てば、こんな傷、何も感じなくなるときが来る。
経験でわかっていても、人の心は、なぜこんなふうに揺れるようにできているんだろう。「この先の景色を見たい」という気持ちが、わたしにはない。
いつも、ずっと、一度もない。
「この人と一緒の時間を過ごすには、残りの人生は短すぎる」と思ったことは、一度だけある。
誰かと出会ったり、ものすごい才能を見たり、ひどいものに触れたり、そういうことがあるたびにまた、あの冷たい手すりを握りしめて、「もうここまででいい」と思うんだろう。
いつも、手すりから引き返した日常を生きている。普通に笑って、話して、食べて、仕事をして。
そうじゃない日常が、どこかにあるんじゃないか。
手すりを引き返すなら、もっと、思い切り、もっと、何か、強烈な何かが欲しい。
たまらなくそう思うときがある。
感情が、すこし、過多なのだろう。
明日が、強烈な一日であるように。
「これでいいんだ」と思えるような決断ができるように。
引き返した先のほうが、ずっといいんだと実感できるように。
夜が過ぎるのを待つ。
これに関してはもう胸が痛い。
私はベランダの手すりを握ったことはないけれど、
布団の中で涙が止まらなくなる夜が1年に4回くらいはある。
自意識過剰なのは百も承知なんだが、どうやら私は心が弱い人に分類されるんだと思う。雨宮さんはどうなのかはわからないが大きく分ければそうかもしれない。
何気ない日常の中でいつもは流している事柄がどうしようもなく胸に刺さる日がある。
そんな日はちょっとしたことでも深く考えてしまうし、トラブルなんかが起こってしまったら本当に立ち直れなくなってしまう。
私は1LDKの賃貸マンションに住んでいる。車は持っていないので移動は自転車。
ミニバイク風のオシャレな自転車を買って、駐輪場に置いている。
ネットで買ったので特にブランドもないのだが、とても気に入っている。
うちのマンションはファミリー向けの分譲マンションで、私は分譲賃貸として契約している。
仕事でミスをし落ち込んでいるとき、美味しいものでも買ってこようと駐輪場に向かう。ぎっしり並んでいる自転車の中から自分の自転車を探す。
周りを見れば、子どもを乗せるための荷台が前にも後ろにも付いた自転車ばかりが並んでいる。
私が探しているのはミニバイク風のオシャレな自転車。
前にも後ろにも荷台は付いていない。
たった一人乗るためだけの自転車。
お気に入りの自転車のはずなのに。
たったこれだけのことで心が更に沈む。
どんどん急速に落ちていく。
誰に何を言われたわけでもないのに、自分を否定された気分になってしまう。
誰かに認めてもらいたい気持ちがこんなに強くなったのはいつからなんだろう。
雨宮まみさんもこんな気持ちだったのかな。
彼女は世間に認知されているし、収入だってかなりあっただろう。
人を勇気づける才能もある。
それでも死にたくなる夜が訪れていた。
雨宮さんの死因は事故死という発表である。
それでいい。
そうしておいてほしい。
いろんなことを想像してしまうが、彼女の書いた文章で救われた女性は数多い。
彼女は一体何に救われていたんだろう。
何気ない日常の一コマに救われていたと思いたい。
私もそうやってこれからの人生を生きていくから。
土曜日の朝。
パン屋さんで買ったパンとたまたま残っていたインスタントのコーンスープ。
温かいスープがあるだけでちょっと幸せな気分。
たまたま家に残っていたコーンスープに幸せを感じられる日を重ねていけるように。
パン屋さんのパンをお皿に盛らなくてもそのまま食べちゃう自分をそれでいいんだよ。と認めてあげられるように。
雨宮まみさんの著書を今から読んでいきたいと思います。
彼女が少しでも何かに救われていたと願っています。
心よりご冥福をお祈りいたします。